まあそもそも自由の修正という意味不明なものが社会の理念という時点でおぞましい。もっとおぞましいのは、憲法では、自由も修正も定義がなく、これは事実としては判断者が修正だとしたものが修正になるのである。裏を返せば、いかようにも自由を制限できる、と言っているにすぎない。事実としては、権力者の都合でいかようにも自由が制限されるという憲法の下で支配されているのである。たんに生活上の実害があるというだけなく、このような理念しかもたない精神的に貧しい国という点でも、どうしようもない絶望感がある。


一定の権威付けされた認識体系による事実の独断を通して、社会に対して一定の機能を及ぼす、というのが日本のやり方で、こういう特殊なやり方によって、解釈は立法である、という不思議なことが可能となる。しかしこれは要するに先にしたいことがあるのだが、それを直接やるのではなく、嘘を媒介にして間接的にやるという点では、ただの気休めであり、少しも評価に値するところがない。悪いことをしているが、悪いことをしていると思いたくないので、正義の体系を作っておいてそれにかこつけてやりたいわけである。しかし正義は実在しない。日本では、何らかの政治目的があり、それを追求する手段として法があって、事実と規範がその政治目的追求に統合されている。つまり、規範の独断的解釈を通じて事実に影響を及ぼすという繰り返しの中で政治目的が追及されていく。しかし、これは政治目的の手段として法をみているところ、本来は、政治と法は独立の実在概念であって、政治をして法秩序を形成解体する関係にあるのだから、日本における法と政治の関係は、常軌を逸している。日本では政治だけが実在であってそこに自足的な認識体系である法が変な関わりをしていくという特殊な関係にある。話がややこしくなるのは、このように、認識体系に過ぎない日本法がアメリカ法やヨーロッパ法を仮装しているために、実在体系だと見まがうことである。憲法の三権分立や議会での法律制定、立法事実論などを知れば、これは限りなく実在の法秩序ではないかと勘違いする。しかし違うのである。両者はほとんど酷似しているがギリギリのところで全く別物であり、西洋法が実在とすると日本のそれは蜃気楼である。林立する森の中に幻をみるごとくである。いずれにしろ、法は政治格闘の結果である、というのは語弊があり、確かに一般には法は政治による秩序形成解体の結果だが、日本法の場合、政治と法が独立しておらず、目的手段の関係にあるから、正確には、法は政治の手段にすぎない、ということである。そこでは別に政治格闘をして法ができている関係にはなく、法が政治に奉仕している関係にある。つまり、政治目的に合致するように認識体系である法が解釈されるわけである。だから、法は政治格闘の結果ではなく、政治の道具である。この点で、id:kouteikaid:nomurayamansukeは間違っている。もし本当に「法は政治格闘の結果」というのなら、日本の場合なら、法とは、時々刻々と維持されている実際社会のこの秩序であり、政治とは、人々の生の生活だろう。しかし、日本の常識では、それらを法とか政治とは呼ばない。法とは六法全書であり、政治とは国会のそれというふうに定義されている。しかし、国会の政治というときの政治は本当の政治ではない。それは、法は政治格闘の結果であるという体裁を維持するためのものにすぎない。本当の政治は、社会の深部で行われているし、本当の法は、なんだかんだいいつつもなぜか調和のとれているこの社会自体である。