民主主義という定義で奴隷社会を実現するのだから人間のクズとしか思えない。

法律解釈というのは基本的に法律の中で生きる人間がどういう行動をとるインセンティブが働くかを念頭に行われている。法律で言っていること自体(人権保障、公共の福祉、個人の尊厳)は、無いし、どうでもいいのである。それらは、ルールをおしつける際の大義名分にすぎず、実現するつもりはまったく感じられない。目がさめてみると、法律というのは、心にも無い大義名分をかかげたルールを使って、人間がどう動くようになるかを考える、クズの学問だった。これは法律だけでなく、マスコミの情報にも使われている。まず人間にとらせるべき行動が先行し、そうさせるためにはどういう仕組みにし、どういう情報を流せば良いかを考えている。これは一応法律や情報という自足体系の形を維持しつつ、人間の行動を軌道づけるのだから、かなり技巧的な支配形態である。法律はともかくネットでも、ある情報を見たらそいつはなんのためにあるかを考えた方が良い。なぜそんな情報が垂れ流されているのか。表面で言ってることはともかく、どのような実質的理由があるのか。こういうことをしている連中が何者かは知らないが、まあ、神社の中に住む神々が色々議論をしてそういう情報を作り上げてしまい、後は機械的に垂れ流すというようなことをしているのだろう。そして、人人は、かんながらの道ということで、それに絶対隷従する。内容がまずかろうが飲み干すのである。するとあら不思議、生活がうまく行くし、人間関係も円滑に成る。神様ご利益を授けてくれてありがとう、である。そういう不思議な現象が起こるが、実は法律や常識といったものの神秘的構造が関わっている。私は日本は近代国家とばかり思っていたが、まだそういう国だったのだ。