日本は戦時中

私のような田舎っぺはそもそも現代日本が戦時中ということに気づかない。なぜかというと田舎という地域はもともと経済戦争の下部構造を支えるための人材を養成する構造として予定されており、学生時代は日本が戦争していることには気づかされないように仕組まれているからである。都市部の子供は最初から日本が経済戦争下にあることを知っており、そのための教練を受けているが、田舎はその逆である。だから学校はあっても誰も勉強していない。それは個々人が怠けているというよりは国がそうさせているのである。田舎の学生は卒業後に約束されている奴隷労働を全うするためにも勉強しなくてよろしい。教師や親はこの総合的な仕組みを隠し、学生を騙しているわけである。だから猿同然の田舎学生はまさに猿のように学校で青春を楽しむ。そういう様子が卒業アルバムからうかがわれる。ただ私は変人で、小中学校は不登校でボイコットし、上のように田舎高校に仕組まれた構造も無視し逸脱して生きてきたので、構造が予定していたとおりの人間にはならなかった。私という人間は構造の塀の上を自由に歩いてきたようなものである。具体的に説明すれば私という要素はたんに知ることが好きなだけの「人間」で、高校科目という構造に出会ったのを「きっかけ」にして自由きままに勉強するも、ときには仕組まれた強力な構造に翻弄され、崩壊家庭という構造にも翻弄され、それでもなお戦い続けて自分を守ってきた人間といえる。ただし、田舎の学校の構造や崩壊家庭の構造、受験戦争の構造、大学の構造、金や経済の構造、文化に似せて作った戦場であるところの都市構造は、きままに生きようとしていた私にかなりのストレスを鬱積させ、極めつけは日本の制度が模造品であり別の醜悪な機能を実現するための形骸にすぎないことを知るに及んで、いよいよ爆発した。先の犯罪はそこに原因がある。要は構造が私という人間を調整し切れなかったわけであるが、それと同時に構造がいかに非人間的かということである。考えてみれば私が今まで知り合ってきた人間はいかにも構造的な人間ばかりで、人間として不自然な奴ばかりだった。行動も身なりもコミュニケーション体系も画一化しているのである。大学でも授業が終わるとみんな一斉にどこかに居なくなるという画一性も不思議に思っていた。なぜそこまで統率がとれているのだろうか。要するに大人とかよくできた学生とは構造そのものである。人間くりそつの構造である。連中はときには構造に安住し、ときには構造の機能を振りかざして権力を振るう。大人とは人間として生きているのではなく、構造から利益を得るという動機で生きており、そのようにして構造の奴隷になっているのである。特筆すべきは、この構造は限りなく理想的な人間に似せて作っているところであるが、分析すれば権力者の都合次第である。