西洋法はいざ知らず日本法における年金という教義形式は官僚の老後の遊興費確保の正当化つまり退職後合法的に大金を得るためにある。

官僚とは霞ヶ関役人をトップとする法律に魂を売ったプロ市民のこと。官僚に魂を売ってプロ市民(ひらたくいえば理屈っぽく地域を取り仕切ったりしている者)となり、法律を盲信し、官僚と同じように真面目に働き年金を積み立ててきた人は、官僚ほどではないが、年金の恩恵にあずかれる。霞ヶ関役人は福利厚生形式、手当て形式により、年収は地方公務員より低くても総合的な人生の福祉は最高となる仕組みになっていて、つまらないが安泰な人生である。これに対し、市民となるのを放棄し、庶民として生きる人がいるが、そう言う人は年金積み立てを無視するので、年金がわたらない。しかし老後のたれ死ぬのはひどいから生活保護法などで救済しているが、生活保護申請者はもともと官僚に反目しているから、保護基準を厳しくしたりケースワーカーなどに徹底的に苛め抜かれるし、生活保護世帯は世間が白眼視するようにマスコミが仕向けている。年金は、老齢基礎年金とか老齢厚生年金という細かい分類を作っているが、形骸であり、落としどころ(合計金額)は結局頑張った人には相応の金額を支払うというところにもっていく。西洋の年金制度は社会福祉行政の一環だろうが、日本で言う年金が社会福祉のためだというのは嘘。そもそも制度ですらない。教義。ちゃんと働きつつ積み立てていれば老後も心配ないようにしてやる、という市民総帥官僚の偉そうな配意でしかない。各種会社の退職金制度も実質的には同じ。また歳をとると檀家や医療施設などと関わるようになるが、宗教法人、医療社団法人など民法に基づく民間任意組織の形式をとっていても、公共の福祉適合性という形式的要件を濫用して様々な行政法形式、私権制限形式で規制を設け、実質は官僚支配になっている。宗教法人法などは約60条の条文で様々な行政的縛りをかけている。だから病院や寺院と言っても実質は官僚主宰の学校が予め用意しておいた形式であり、個人が任意でそれらの組織と診療契約、団体加入をするという実質はない。原理がこれと同じ仕組みは馬鹿みたいに無数にあるし、これが全てといえる。大学は国立大学という行政形式をやめ、国立大学法人という民間形式としたが、形式濫用により、営利経営ができるほかは行政法形式の頃と変わらない規制がかかっており、文部科学省に管理されている。若者はこのような団体と在学契約をするというが、これもまた形式濫用著しい。税法は純粋な行政法形式だが、官僚は公共の福祉のための称して可能な限りたくさんの税形式を作りだし、労働者には高い基本収入を示しておいてぬか喜びさせ、固定資産税や自動車税、国保税などで引いていき、さらに水道、ガス、電気といった基本インフラからも引かれ(ガスや電気は株式会社が運営していることがあるが、形式濫用により、実態が官僚ということが多い。ゆえに税金は行政法形式、インフラ使用料は私法形式というだけで、実質はいずれも官僚に対して支払っているのである。株式会社は約款や特約形式を利用してびっしりと規約を設けるなど行政法と同じようなことをしており、時効や権利濫用など理論的な存在根拠が怪しいのに存在している私権制限形式を濫用して使用者を圧迫する明細書を作成し、定期的に配達している。ガス料金、電気料金明細書など)、個人が真に自由に使える金はほとんど残らないように操作する。国立大学が法人になったとか、郵政が民営化したというのも、法形式上できないことをできるようにするための利益主義一辺倒の表紙替えにすぎない。
ところで労働基準法などを社会法と呼んでいる人がいるが、同法の内容はあくまで私法の権利濫用の具体化と届け出などの行政法形式なので、公法と私法のうち労働関係の規定をミックスした法律にすぎず、社会法というものがあるわけではない。そんなものを作ってしまうと論理矛盾となる。私法のうち権利濫用条項を社会法と呼べるかもしれないが、この部分だけ社会法と呼ぶと、たとえば労働基準法のうち行政法形式になっているものは何法かということになる。やはり矛盾なので、世の中には公法か私法かしかない。公法と私法は公共の福祉つまり国民還元利益実現のために作られた法形式にすぎないし、国民利益に適合的なようにいくらでも形をとれる。つまり、国民利益に適合するなら公法はどこまでも広げて良いし、私法のうち権利濫用形式もどこまでも広げてよい。日本では公法形式を肥大化させ、権利濫用形式も肥大化させ、任意形式の部分は極小化されている。ここに、一見自由国家なようでいて北朝鮮や日帝と変わらない現代日本の秘密のカギがある。つまり公法、権利濫用条項、私法はいずれも形式であって、国民利益適合的なように伸縮自在ということである。憲法の公共の福祉の判定基準からしてそうなっているから、この法体系は実質的に中世や江戸時代の上からの勅令法同然であって、アメリカ法でも西洋法でもない。
そもそも客観的な法ですらない。宗教法である。ゆえに何をもって国民利益適合的かはそれを作成する官僚が決める。官僚がよしとした法形式が正解となるのだから、違憲審査もくそもない。最高裁がたまに違憲にする論理を見ていると、時代に合わなくなったなどの理由にしているが、これは官僚が後からチェックして要らなくなったとか、なくてもよかったというような法形式を削除する意味で、違憲としているにすぎない。人権救済の論理ではない。
世の中の大半の組織(寺院、病院、予備校)などが民間組織にもかかわらず行政的であるのは、行政法形式と私権制限形式(権利濫用や強行規定)を濫用しているからで、設立形態だけ民間組織で、私権制限形式と行政法形式が多数組みこまれて実態は官僚支配ということが多い。真の意味での民間組織に近いのは、個人事業や個人商店だが、これらのように官僚支配に反目して運営している組織がリアルにどうなっているかは、シャッターの閉まった商店街をみれば一目瞭然。極限は行商や露天商だが、その運営実態は零細(道路端の野菜売りなど)。つまり官僚国家日本では真の個人活動は認められていない。何事も団体理念に従い団体で行うほどうまくいくようになっている(なぜ俺が官僚に殺人予告したかというと俺が個人活動を目指していたからだ)。世の中で繁栄を極めているのは、実質的な官僚支配組織(イオン、ドコモ、損保ジャパン、ソニー、セブンイレブンなど)で、これらは株式会社形式をとっていても、実は官庁の一部に過ぎない。こういう原理はあらゆるところを支配しており、たとえば邦楽で長続きしていたりするグレイやラルクや浜崎あゆみは、個人の実力では全然なく、実は背後に官僚がひそんでおり、歌詞の趣旨や発表時期は官僚が会議で決定しており、バンド自体はかっこよく歌って画面をよくみせる係でしかない、ということが多い。

最近、昔と比べて役所形式が後退しているのは、地平天成というように実質行政が完成してきたからで、重点が経済に移り、庶民は行政国家形成のための有為者の役割を終え、完成した舞台の上で、今度は能率的な消費者としての役割を課されているからである。つまり今度は舞台の上でいかに消費奴隷とするかという観点から様々なプロパガンダがなされており、2chやブログなどはその典型である。つまり、経済重視傾向だからといって民主主義化してきたという実態はなく、あくまで官僚による呪術支配中実質行政から実質経済に重点が移行しただけで、依然としてこの国の支配者は官僚や裁判官だったりする。つまり、完成した実質行政よりも未完成な実質経済にまつわる形式を前面に出した方が国民利益還元になるので、テレビもネットも民間形式の会社(ヤフーやグーグルなど)が流行しているわけだが、その形式の流行は結局のところ官僚に利益還元されている現実に気づいていない。

無知な人々はこんなの形骸と思っているかもしれないが、法律を作り判断する裁判所や官僚がこの形骸に守られており、最終的には警察の暴力がひかえていて、最高裁はどんな判断をしても違法とするのは難しいという法制は、裁判すらするな、政治参加するな、形骸にそのまま従え、といっているのに等しく、実はこの形骸支配即暴力支配ということに気づいていない。日本人は生まれながらにしてどうあがいてもこの暴力支配の中に取り込まれる算段で、そのことを知らされず、自由と生きられると勘違いさせられている若者は・・・

はっきり言って実に馬鹿馬鹿しい。リアルでは学問的知識を形骸として使い逆のことをしている。教科書で自由とか権利をいうことを教えて子どもを目を輝かせておきながら、社会に出たら北朝鮮というのでは、人を愚弄しているし、真に真面目に勉強した者が報われない。いわば話半分、いや、9割嘘と思って暗記だけしてきたペテン師的お調子者がもっともいい目を見るという正義も糞もない最悪な社会だ。北朝鮮が悪とすると日本は最悪だろう。日本は学問で支配される合理的社会と言われるが、うそで、学問に似せて作った形骸の中に官僚の思惑をインプットして作った念仏に庶民が呪われて官僚の奴隷化し、死んだ目をして勉強し労働し消費する古代呪術奴隷社会でしかない。憲法の実態は集団自我利益至上主義で、それを人権法や民主主義の形骸で塗り潰す、世界史上類例を見ない最悪な社会だ。