最高裁が人権と公共の福祉の関係について最も正確に述べたのは次の判例くらいしか存在しない。『公務員の労働基本権も、国民生活全体の利益の保障という見地からの制約を当然の内在的制約として内包しており、その制限は、労働基本権を尊重確保する必要と国民生活全体の利益を維持増進する必要とを比較衡量し、合理性の認められる必要最小限度のものにとどめなければならない。(最大判昭41・10・26刑集二〇・八・九〇一〈全逓東京中郵事件〉』。ここに矛盾が2つある。まず、普遍的にいって人権というものに国民生活全体の利益の保障という観点からの内在制約があるという思想は存在しない。これは、権利という『形』には国民生活全体の利益の保障という実質の点から制約がある、という日本独特の考え方である。つまり、アメリカと違い、日本では権利が形式化されており、内在制約というときも、国民生活全体の利益の点からどういう形が最適か、という特殊な議論となる。この点で、人権とか公共の福祉と言っているが、日本国憲法はアメリカ憲法とは意味が異なる。2つ目の矛盾は、国民生活全体の利益という言葉が抽象的であり、憲法の基本原則をいうものとして失格ということである。なるほど権利という形が公共の福祉により制限されるのは理解できるが、国民生活全体の利益の保障というのでは、何のことか分からず、論理的な基準にならない。したがって憲法は憲法でなくなり、憲法も法律と同じ建前になってしまう。すなわち、憲法=法律なのである。そして、論理的に言うならば、日本の真の憲法は、国民生活全体の利益という法律的用語に対し独断的に意味を与える一部の人々自身になってしまう。なぜなら表向きの憲法が憲法と言えない以上、それより上位に憲法を求めるしかないが、それは憲法という建前を解釈し、そこから法律を作り出したり、事例に適用している官僚や裁判官自身というほかないのである。結局のところ、一部の人々は、形を作りだし、それに適切な制限を与えるが、彼らの主義や理念が不明である以上、制限基準は彼ら自身というしかない。すなわち、日本の真の憲法は官僚集団自体であり、その内実は、この国を維持するという観点からの場当たり的な実際的考慮以外の何物でもないように思える。日本の真の実質法はその場その場の権力者の場当たり的主観的判断およびその積み重ねでしかないわけである。よいことを言っているのは全部形式的念仏であって内容は存在しない(憲法さえ)。つまり、国民に対する還元利益の点から権利という形に制限が設けられるというのも幻想であって、実質は官僚による政策的観点からの利益考量により形に制限を与えており、その結論を「国民生活全体の利益の保障」という名に帰属させているわけである。つまり、どういう形を作り出すも、どういう制限をかけるも、官僚の勝手なのである。ここにあるのは、実は官僚集団の実際的考慮による実効支配のみで、それ以外何も存在しない。ひとつひとつの人権というプレートを張られた行為(したがってアメリカでいう人権とは違う)について、どの程度制限すれば、国民という名の官僚の利益に還元されるかですべてが決まっている。