起訴裁量主義

これなんだが、ドイツの起訴制度は人権保障原則から導かれたものなんで、裁量主義じゃなく何らかの条件があると起訴が義務化されてるんだが、日本法の起訴裁量主義ってのは、意味があいまいな公共の福祉という原則に適った形骸でしかなく、ドイツの制度と似ているが次元も内容もまるっきり別物という大きな落とし穴がある。つまり、ドイツの起訴義務主義というのはちゃんと人権保障という内容に直結した実のある制度なんだが、日本の起訴裁量主義は公共の福祉のための切り札みたいなもので、ドイツの起訴義務主義みたいな内容がない。ぶっちゃければ起訴裁量主義という切り札を置くことが公共の福祉に適うという官僚の決め打ちで置いてあるだけで、公共の福祉にかなうならしょうがない、文句を言わずに使いましょう、というものでしかない。だから議論の余地はない。

仮に刑訴法学者がこの制度趣旨を説明したとしても、人権と公共の福祉の調和とか玉虫色にしてお茶を濁すだけで、まともな説明は得られない。なぜならカルト的な法律実務と純理論的な刑訴法学が根本的に矛盾しているからで、刑訴法学的にも実務法学にも筋が通るような説明をしようとするとあいまいにするしかないというわけ。人権と公共の福祉の調和と言えば、実務の方の札の公共の福祉でも、Public Welfareの方にも意味が通じる。だから起訴裁量主義なんて何の根拠もなくて底が抜けたカルタの札でしかない。

「下らねえ臆病な愉快犯の相手してるほど司法にも行政にも資源はないよ。だからホイホイ反省文書いてきた初犯は不起訴にするし、不起訴にしなくても裁判官が執行猶予にする場合もある。」こういう説明が通る時点でこの国はカルト。なぜなら、コストがかかるから裁判しないなんてことは真の人権社会ではありえないから。法律がカルトだからこそこういう利益考量が通る。正義は札化されていて、中身は利己主義というとんでもない国。起訴裁量主義なんてのも、基本、全体を西洋の法制度に似せて作った上で、制度の中身を抜いて札にしておき、適当な利益考量の隠蔽に利用されている。マンスケがいうように「下らねえ臆病な愉快犯の相手しない」から不起訴、執行猶予、とこういうわけだね。こういう論理が通るなら、被疑者がむかつくから公判請求、被疑者が可愛いから略罰で済ます、ということも可能になる。ぶっちゃけて言えば、起訴裁量主義は、被疑者苛めの手段だしね。この目で見てきたから間違いはない。検察庁なんて小賢しい悪魔の巣で、形骸で人を騙して苛め抜くゴミクズの集まりでしかない。

まあこんな老獪な仕組みを子どもが知ったら怒り狂って親や教師殺すとこまではいくだろうよ。子どもはあくまで教えられてるのが実在と思ってるから大人を信頼してるわけで、実は絵だったということに気づいた頃にはもう遅い。こんなとんでもない社会に参加したら、自分の理想は少しも実現に向かっていないのに、向かっているつもりで必死に働かされ、いつのまにかシステムに養分吸い取られてケツ毛まで毟り取られ、人生丸ごと利用されて捨てられるよ。つうことで俺の人生がクリアーバランスということ。