似せて作ったマガイもん

マンスケがスタイルの違いとか言ってるわけだが、スタイルとかいう問題じゃない。アメリカには客観的法規範があり、日本にはそれに似せて作った形骸しかないということ。だから日本の中ではスタイルということはいえるが、アメリカのはまさにTHE社会規範であって、形がどうとかの問題にならない。詐欺師が、客観的法規範なんぞない、という説を取りたがるのは、あるとすると日本と諸外国の違いが明らかになるからで、無理に、客観的法規範なんぞない、という立場に立つことで論理必然的に外国法と日本法を主観法のあいまいな領域に押し込み、違いが際立たないようにしている。

真理を言えば、アメリカ社会には経験的に蓄積されてきた客観的法規範があるが、日本には主観的法規範しかない。つまり、社会はカラで、ただ人々が強く思いこんでいる宗教規範みたいなものがある。社会通念というのは、みんなで思いこんでいる形骸のことで、常識とか公共の福祉というのは、社会通念の総体が実現している還元利益のようなもの。

アメリカでは法律が全部自由憲法の手段だが、日本では法律は切り札で、奉仕先が人権ではなく公共の福祉の方に向いている。だから変態としか言いようがない。日本社会ってのは、表面的に人権保障のルールで動いているようにみせかけておいて、実は配置されているものが全部主観的な切り札でしかなく、その切り札の見た目が自由国家そっくりということ。物理的、客観的には基本カラで、内容は官僚の政策に対する狂信的隷従。もともと形式法が人間のルールではなく、神の託宣だし、その場その場の権力者の法解釈を通じて適当な結論が命令される仕組み。

卑近な例でいうと、東京なんかニューヨークそっくりだが全然別もの。あれはNYにあるようなビルや道路に似せて作ったスペースクラフトの集まりで、NYとはまったく別のことをしている。経済は実質管理経済だし、生活すら管理。つまり、自由の形式の解釈で自由領域さえも実質行政的規律を及ぼしている。