切り札としての英語

現代日本人にとり英語は実体ではなく切り札に過ぎない。それも主観的な。受験生はただ英単語をいつかは忘れるつもりで切り札のごとく頭に詰め込み、一時的に作りだした英語脳をたずさえて試験会場に行き、切り札を使うように和訳をして帰ってくる。そこには英語活動はない。ただ出題者と解答者の間で、切り札の出し合いという闘争があったのみだ。こっちはこういう出題をするが、さてお前はこれを訳せるだけの切り札を持っているか。

上記和訳問題でも具体の受験生が深い意味までとらえて本当に英語を使って解答しているという証拠はない。東大入試に限っては普通の入試に比べ一歩つっこんだ能力が問われているように見えるが、それでも本当の英語ではない。この和訳問題はどちらかというと国語力を問うているので、本当の英語を身につけてくることは要求していない。そもそも本当の英語なんか身につけていたら1日目の国語問題が解けずに落ちるだろう。

社会で英語が何の役に立つかというと外国人から情報を得るための切り札として使える。日本人にとっては得るものが問題で得られるものがなければ使わない。要するに英語さえも頭の中の法律の一部みたいにしておいて自己利益のために適宜繰り出すようにしている。

そのような体系を頭に完備するのに役だつのが数学で、東大の数学のように落とし穴の多い老獪な問題をたくさん解くことでストックしている知識を上手に利用できるようになる。これでまた自己福祉が向上する。結局のところ東大入試は学問ではないし、自己福祉ひいては社会福祉のための切り札のストックと切り札の活用能力を最大化するための試練にすぎない。

この問題は数学としては糞以下なんだが

http://www.yozemi.ac.jp/nyushi/sokuho/recent/tokyo/zenki/sugaku_bun/images/mon4_1.gif

解答

http://www.yozemi.ac.jp/nyushi/sokuho/recent/tokyo/zenki/sugaku_bun/images/kai4_1.gif

をみれば分かるように実に複雑な論理を展開しないと満点がもらえない。で、日本という社会はまさにこういう論理を操れないと生きていけないように設計されているし、法律もこういう発想でできている。