文部科学省がしなきゃいけない教育というのはありもしないことを暗記させるのではなく、日本の実態をそのまま教えることです。

わが国は管理社会であり、4つの工場(学校)で教育プログラムを終えたら、社会にある各工場に配属され60歳まで働く。自宅と思っているものは労役場付属の居室であり、工場で働いて政府から貰ったチケット(カネ)で、お菓子でもゲームでも好きなものを買うことが出来ますよ。ただしこれは本物のマネーではなく、政府発行のチケットに過ぎません。休日には公園や史跡などの慰安施設に行ってもよろしい。一定範囲内ならドライブをしてもよい。ただし変なことをしたら豚箱だ、いいな。こういうふうにできている、というふうに。大体ありもしないウソ(民主主義とか)を刷り込むというのは人権侵害であり犯罪であり極悪非道であって人間の脳を侵害する取り返しのつかない暴虐行為です。それが少しもわかっていない。文部科学省のデスクでみかんゼリーを飲みながらサボっているプライドのかけらもない馬鹿はそれに気づき大いに反省しろということです。


憲法は官僚の恣意を覆い隠すための正当化の道具として形式化されています。大体人権と公共の福祉の調和などといい、合理性や相当性という言葉を使って具体化をせず、裁判官や官僚が妥当と思った結論が相当だとされるなら、この憲法は何でも言えるわけです。しかも形式化されていないと言い張れるように極限まで分かりにくくしているため国民は気づきません。しかし、調和の基準が相当性や合理性であって、すべての法律がここからでているならば法律の縛りは意味がなく、どんな結論でも出せる、ということになぜみんな気づいて攻撃しないのか分かりません。なにせ根本が相当性しかないから、権力当局が相当と思った場合はいくらでも逮捕でき(具体的には多すぎる犯罪類型と、警察が相当と思料すれば逮捕できる手続き)、大人に取っては実はあぶなくて道も歩けないほど恐ろしい国家なのです。いわば、一元的内在制約の形式で、一元的外在制約をしているわけで、この外在制約というのは戦前と一緒で自由を政策的にいくらでも修正できるというもので、さらに自由を外在的に制約するという建前で、官僚に都合のいい調和を維持しようとします。だからいってみれば法律は官僚に都合のよい調和を実現するためのもので、それに複数のレイヤーがかかってるだけです。根本にあるのは政策だけです。この馬鹿どもはよくもまあ自分の政策を綺麗にいい変えるようなプライドのかけらもないことをやるもんです。ありもしねーものを何年も教育するとか馬鹿じゃねえのか。人権侵害もいいところ。あると思った奴にはどう言い訳すんだよ。とんでもねえ国。いや頭の中がどうなってるのか見てみたい。ないものを大量に暗記させて悪いと思わないのだから犯罪性向が根深いんでしょう。

被告らは、日本語の造語性および定義という方法に着目し、空間に応じて様々な言語観念の体系を作り出し、とりわけ国家に関しては法律という体系を作り、それらの定義を総括する意味もこめて一応憲法を書いたものの、その憲法は実はあいまいで矛盾したものであり、どのようにでも解釈できるものであって意味をなしておらず、さらに定義や法律が社会や憲法の手段や実在ではなく形式的構成にすぎないことが発覚するのを恐れ、マスコミや学者といった知識人を用意し、定義や法律にあたかも文字通りの意味があるかのような言説を作り出して若者や一般国民を騙しつづけ、被告らに都合のよい活動に従事させてその労働力等を搾取し、疲弊したと見るや多少のねぎらいと恩典を与えて安楽死させ、あたかも犬小屋のごとき住宅に永住するように仕向け、同調圧力や警察力を駆使して以後の行動を制御し、余計な活動ができないようにしていたなどという計画の全体を見るときは、結局人間を被告らに都合のよい活動に従事させるために使用していたというほかなく、その計画には被告らのエゴイズム以外に何ら正義や理念がなく、とりわけ実在しない観念を大量に暗記させて後々指令の道具にしようとしていた点は、人権侵害というほかない。弁護人に拠れば、被告らは、人々に食事を与えるのを欠かさず、入浴や医務、健康管理や運動の機会の付与、娯楽の用意を怠らなかったというが、記録に拠れば、これらの行為は、いずれも労働力たる人々がなるべく長持ちし、しかも抑圧から来るストレスで精神的に錯乱して暴動を起こさないようにするという趣旨が主であり、人間としての善意に出たものではなく、使用者による労働力の管理行為の一環に過ぎないから、情状酌量に値するものではない。以上のとおり、被告らの計画及び行為は、多面的にみるときは、人々を古代的奴隷制度に従事させている以外のなにものでもないから、国際刑事裁判所としては、被告らを全員死刑に処するのを相当と判断する。

被告らの犯罪のうちとりわけ非道な点は、民主主義とか人権保障を掲げているものの、何らそれらの精神の伴わない固定された言語体系を樹立し、この膨大な言葉を人々に無理矢理暗記させ、これらの言語をほとんど形式的機械的に使用させて、人々から人格を奪い、軽薄化させ、精神性を根付かせず、奴隷労働の実だけあげようとしていたという点である。言語は人間の自覚的な精神活動の産物であるはずだが、その自覚的精神活動を抑圧し、自分たちに都合のよい言語体系を外部から押しつけるのは非道である。楽しいはずの人生の途中で突然殺される人々の無念さは察するに余りあり、殺害から逃れたとしても、ありもしない言語を頭に植え付けられたことによる後遺症に苦しんでいる人も多数おり、被告らの刑責はまことに重大といわざるをえない。特に最近の被告らの行為は、インターネットという匿名性を利用した卑劣な犯行であり、動機や経緯に酌量の余地はなく、反省するどころか人々を愚弄しているのであり、極刑は当然である。