日本は深い言葉の世界

日本はほんとうによい国だろうか。表面だけみれば、自由社会、人権が保障され公共の福祉が実現された世界というふうに完璧な印象を与えるよう整備されているが、次元を深くして行動の原因を規定する最終次元をみると、情義とか情とか自己利益といったもので動いている。その最終次元での正義は、損得とか努力とか奉仕とか愛情とか結果論といったものである。すなわち本質では日本は古代以来の法則で動いており、近代以降西洋から入ってきたような精神は何も身についていない。例えば警察官は犯罪が行われたと思料する相当の理由があるときは容疑者を逮捕してきて取調べを行うとされており、その根拠は公共の福祉のため警察に与えられた権限に基づくというが、実際には「相当」の恣意的解釈によって気分で逮捕したりしなかったりし、仮に取り調べ室まで連行しても、形式的に謝罪すればその場で釈放といった実務になっている。検察官による起訴不起訴判断や、裁判官による執行猶予付与判断も同様に情や利益や気分で決まる。例えば執行猶予が付くかどうかは被告人の態度や弁護士の数などで決まるだろう。表面では人権保障や自由といった法則で動くとしておいて、深いところではそれと正反対の法則で動くというのは矛盾に見えるが、矛盾でない。なぜなら表面的に言っていることは教義であり、その教義の意味内容の判断要素として多次元が展開されていき、最も深い次元(しばしば明示されない)において既述した要素が出現するからである。たとえば警察官職務執行法にいう相当にはどんな事実でも入れられるからここに多次元が存在している。自由と不自由というような相容れない論理が並存妥協しているわけではなく、自由に関する無内容な教義体系(上の例でいえば相当性)への意味付与として不自由を実現する。教義体系における意味付与であるため、教義の言語が直接性を害し、実現しようとしている不自由が制限されることはあるが、それは自由によって制限されているのではなく、教義というものの限界である。ゆえに本質的に自由と不自由の妥協ではない。建前が邪魔をしているというだけのことである。日本の学校教育は、集団主義を教える一方個人主義を教えたりするが、これは矛盾しているようで矛盾していない。なぜなら集団主義の方が原因で個人主義は教義だからである。個人主義という教義を立てておいて解釈で集団主義を実現する。そういう見方でみていけば、混濁した教育内容も実は整合が取れている。結局は日本型集団主義という実質で生活し、それを個人主義といった形式で目隠ししなさい、という教育だからである。しかしこれは問題がないどころか非常に問題である。まず、全然正反対の言葉を、仮に一方が架空であるにしろ頭に詰め込むことは、知的苦痛を伴うし、実に馬鹿馬鹿しいからである。それに架空の体系とは言え、高校の歴史や公民それに大学の法律科目の情報量をみればわかるように、膨大だから、結局のところこれは奴隷の苦役としか思えない。無いものを大量に暗記せよと言うが、いくら無いものとはいえ、暗記すればそういう精神が形成されるのはやむをえないから、根本にある実質と矛盾し、精神と脳への言語的負荷はすさまじく、苦痛を与える。たとえば個人主義という言葉を覚えることには個人主義という精神を形成する機能がないとはいえないし、繰り返し暗記したり、個人主義ということを習った機会に文献に当たったりすればなおさらである。世界史学習にしろ、外国で起きた諸事情を覚えるわけだから、外国の価値観が身についてしまうおそれを排除できない。決定的に矛盾ではないかと思うのは、英語教育である。大学を含めて8年間も英語教育をすれば、これはもはや個人主義を身につけさせているのに等しい。いくら体験を通じない英語教育といっても、若い人にあれだけ重点をおいて学習させれば、英語の背後にあるアメリカ憲法的価値観が身につくのは避けられない。それとも、あらゆる価値観が身につくことを避け、小中学校で身につけた集団主義を守るため、世界史でも英語でも形式的に学習していれば良く、実質的に研究しなくて良い、とでもいうのだろうか。そうすると知的に非常に貧しい話である。しかしそういう実にアホらしいことを文部科学省は平気で押し付けてくるのである。そしてまたそういう意向に従って学習しないと何事もうまくいかないような予定調和がある。この世界で成功したければ何事にも深く首を突っ込まず、ほどほどにやってこいということである。こういうふうになっているので、試験のエキスパート、特に官僚というのは、古代以来の日本人の感情の他は何も精神を持っておらず、単なる高度な専門人になっている。裁判官や検察官や役人は、何も精神というものをもっておらず、頭はカラで、ただ政策立案能力や法律などの形式的教義の技能があるのみである。つまり日本の正体とは、極めて低劣な内容と極めて高度で複雑な形式の複合体である。極めて高度で複雑な形式によって極めて低劣な精神内容を実現していると思えば良い(だからいくら写真が理想的にみえても、その写真が立体的に展開しているときには低劣で醜悪な現実しかないのが通常である)。具体的に言えば、警察官は憲法12条の公共の福祉を実現するために警察官職務執行法によって与えられた権限に基づき犯人を逮捕する、などと言うわけだが、その内容はいつも、制服を着たチンピラが気に入らない奴を捕まえてきて苛める、というだけである。チンピラが気に入らない奴を捕まえてきて苛めるだけなのに、憲法12条の公共の福祉を実現するために警察官職務執行法によって与えられた権限に基づき犯人を逮捕する、という形式を整えるわけである(実にくだらない)。しばしば構造と機能といい、法律が構造で憲法が機能だとされているが、実は憲法も構造であり、それどころか全ては構造であって、構造の機能はなんとも得たいの知れないものである。この構造の機能こそが日本の真実であるわけだが、私の経験則からすれば、それは極めて現実的かつクズ的なものとしか思えない。公共の福祉の機能という研究があって、公共の福祉(という形骸)には、不法行為機能、規範創造機能、調停機能があるという。要するにこの日本社会にあるあらゆる構造には、人権を侵害し、勝手なルールを設定し、矛盾を強制的に調停する機能があるというわけだが、これらすべてには、特定の利益の伸張論というのがあって、要は構造の機能を利用して誰かに都合の良い秩序を作り出すことができると言うことである。実際、公共の福祉の教義体系は批判と分解が許されないから、逆らうことのできない秩序としてそこに君臨しており、そして極めて曖昧な公共の福祉という概念の機能によって、ほとんどフリーハンドの政策が実現できるようになっている。つまり絶対逆らえない教義体系を君臨させておき、国民の無知や無能や未熟や窮迫に乗じ、権威崇拝心理や同調圧力、立場利用をフル活用してその教義に隷従させ、様々な構造内でその体系の機能として設定された調和を形成させる、というのが日本の支配構造の正体である。このような支配なので国民は人生で経験する様々な構造に設定されている予定調和に翻弄され、自分で自由に精神を形成し自由に人格を発展させる人権はない。したがって平面的に見ると平和な社会だが、最深部では隷従という現実が浮かび上がる。瞬間瞬間の写真ほどこの社会を平和で美しく見せるが、長い目で立体的に観察すると、実に恐ろしい姿をしているのが日本という国である。