自分の中に、本当の自分と、公共の福祉的な自分というのがひしめきあっていて、社会の一員として公共の福祉的に配慮した文章と、自分丸出しの文章が混在することになるが、この世間で生きている限り、それは当然である。

世間に配慮した文章と、自分丸出しの文章が矛盾するのは当たり前である。前者は、世間の感情を考えた上で構成した嘘で、後者は、自分が内面で本当に思っていることを書くからである。

何が世間の常識なのかは、戦前は天皇が決め、戦後すぐは名実ともに官僚が決め、60年代以降は、世間の良識によって決まるという形式で実質的に官僚が決めている。つまり、常識の帰結は国民でなく官僚が決めているから、世間の感情に配慮した文章を書くときは、自動的に官僚の政策に従っているに過ぎない。

自分丸出しの文章が毛嫌いされるのは実は官僚の政策に反するからだが、今では非常識だからだ、となる。ここが微妙なところである。人々は、しらずしらず、常識の名によって他者の意見を封じ込めることで官僚のしもべになっている。

社会で動けば動くほど勝手に官僚の意思を実現していくことになる。その中で本当の自分は消えていく。実に恐ろしいファシズム国家である。