日本は理想も夢もない国だ。

偽ものの理想や夢はその辺に溢れてるが本物がない。なぜなら現実志向、安定志向、実利折衷主義なので、実利になればするが、ならなければしないし、満足しているときは平和が一番、となるからだ。要するに日本は極めて現実的な国であり、理想や理念を築いてそれを追求しようともしないつまらない国なのだ。どうせ今後も国内で安心しているか、何かが不足してきたら外国に材料を求めるという実利的なその場しのぎで国を運営するんだろうし、国の本質は変態のままであり続けるんだろう。彼らは決して自然権に基づいた「本物」をすることがないし、常に本物に似せた真似事に終始するだろうし、それらに意味がなくなってきたら吐き捨ててまた別の真似事に移るのだ。つまりこれは単なる結果至上主義であり、実利になりさえすれば何でもいいという無節操である。この国の正義には現実と実利と妥協くらいしかなく、その他はカラである。色々な物があるようで実は何も無いのだ。しかも今では腹黒い政治家と狡猾な官僚に支配される如何わしい社会であるし、そこでは邪悪と嘘が正義となっている。邪悪な意思をエネルギーにして嘘を多用し、他者と競争し、その結果を経済社会に還元すると言う単純な仕組みだ。人は陰険と言われるが、実は意図的に陰険にされているのだ。陰険なエネルギーを嘘で中和して個の生命力を最大限社会に還元させようとするのが官僚の策略であり、万人がそれに嵌って官僚与党の意思で働いているのだ。繰り返すがそこでは邪悪と嘘が実質的に正義なので、善意や本物は徹底的に排除される。善意でしたことは悪意と解釈され、本物は通用せず、教育で量産したコピーみたいな嘘つき人間が跋扈する。よっていかに善意があり本物を追求していた人間も、この社会に疲れて切り捨てられ、しまいには邪悪と嘘に寝返っていくのだ、生きるために。このように、色々誤魔化されていても、現代日本とは、邪悪な政治家の意思を原動力に狡猾な官僚が嘘を多用して最大限の能率を発揮して仕事をするというクダラナイ国であり、個々人にもそのメカニズムが内面化されており、屑と嘘の塊が互いに小競り合いをしている地獄社会なのである。国自体にグランドデザインがない上に、本質が偽者かつ邪悪であり見た目だけ本物かつ善人のように飾る時代になっているとは、この国は本気でどうしようもないなと思える。なぜ日本は、単なる実利折衷主義ではない国のグランドデザインを描き、本物を追求しようとしないのだろうか?なぜ日本は、理想や本物という普遍的な価値に対して、逆へ逆へ行こうとするのだろうか。なぜ極限までの邪念を極限までの嘘で中和するというとんでもなくクダラナイ仕組みを思いついたのだろうか。簡単な話、次の時代くらいは、そろそろ、理想と本物を追求してみたらどうか。その内容は簡単なことであり、今ある「極限までの嘘」を本物に変えていけばいいのである。たとえば、理科教育は結果を暗記させて終わったことにするのではなく、個々人に自然を観察させてそこから法則を発見させるなど本物の理科力をつけさせるとか、憲法ならば破綻を修正し、お上の気まぐれではない正義を確立するなど、といったことである。ともあれ、日本には内実の無い極限までの嘘が溢れているわけだから、これに中身を充填していけばいいだけの話である。なぜしないのか?*p3*

数学の愛すべきところは、結論が前提となっている真理に保証されていることである。私はこれに感動して数学が好きになった。
根本に正義の無い法律で人を死刑にすれば殺人。
理論的には憲法は本来の意味での人権も公共の福祉も認めていない。

憲法の実質的原理は政治的妥協であり形式的原理は人権と公共の福祉が調和するという強弁である。
律法の作り方は、政官財の陰謀に基づく結論がありこれを「人権と公共の福祉のためだ」
もしくは「愛すべき子供や自然、そしてみんなの幸せのためだ」という強弁で正当化して
実質的に国民に押し付ける。ほんと、この国はどうしようもないよ。